退去率を下げようとした管理会社が、5年後に物件を失った話
ある中堅管理会社の経営会議で、「退去率を下げる」という目標が掲げられた。年間退去率を20%から15%に下げる。事業の安定化と原状回復コスト削減のため、合理的な目標に見えた。
5年後、その会社は管理戸数の3割を失っていた。退去率は確かに下がっていた。でも、退去率が下がる過程で、別の何かが起きていた。
グッドハートの法則
経済学者チャールズ・グッドハートが定式化した法則がある。
「測定が目標になったとき、それは良い測定指標でなくなる」
退去率という指標は、本来「物件の魅力度」「入居者満足度」「管理品質」の代理指標だった。これらが高ければ、結果として退去率が低くなる。
しかし退去率自体を目標にすると、退去率を下げる行動が優先される。物件の魅力度や満足度を上げる行動ではなく、「退去させない」「退去を遅らせる」行動だ。両者は似ているようで違う。
退去率を下げる4つの方法
退去率を下げる方法は、以下に分類できる。
A. 入居者満足度を上げる 設備改善、対応速度向上、関係性構築。本質的だが時間とコストがかかる。
B. 入居者を選別する 長期入居しそうな入居者だけ通す。短期入居が予測される層を弾く。
C. 退去を遅らせる 解約予告期間を長く設定する。違約金を重くする。退去手続きを煩雑にする。
D. 退去理由を黙殺する クレームに対応せず、退去意思を表明しにくい雰囲気を作る。
Aは本質的だが効果が出るのに数年かかる。B〜Dは短期で数値を動かせる。退去率を目標にした管理会社は、B〜Dに流れる。
入居者選別が招いた逆効果
その会社は、退去率を下げるため入居審査を厳しくした。長期入居が見込める層(家族構成が安定、勤続年数長い、年収高い)を優先した。
結果、入居までの期間が長期化した。優良入居希望者は他物件と比較して、より好条件を選ぶ。審査の厳しい物件は後回しになる。
空室期間が伸びた。退去率は確かに下がったが、空室期間が伸びたことで稼働率も下がった。賃料収入の総額は減った。
オーナーへの送金が減った。オーナーは「退去率は下がったのに収入が減るのはなぜか」と疑問を持った。説明できなかった。
クレーム黙殺が招いた評判の崩壊
別の支店では、退去率を下げるためクレーム対応を控えめにした。「クレームを受けるとオーナーに修繕を提案する必要がある。オーナーが嫌がる修繕は退去のきっかけになる」という社内理論からだ。
結果、入居者の不満が蓄積した。SNSとGoogleマップに低評価レビューが大量に書かれた。
評判を見た新規入居希望者が減った。空室が埋まらなくなった。退去率は下がっていたが、新規流入が止まったため、長期的には満室稼働できない状態になった。
オーナーは別の管理会社に切り替えた。
違約金強化の副作用
3つ目の支店では、短期解約違約金を強化した。1年未満解約で賃料3ヶ月分の違約金を契約書に盛り込んだ。
退去率は確かに下がった。でも、その違約金は新規入居希望者に対する心理的バリアになった。「もしすぐ退去することになったら、3ヶ月分の違約金がかかる」と知った入居希望者は、契約を見送った。
応募が減り、空室が埋まらなくなった。
何を測定すべきだったか
退去率は出口の指標だ。入口(新規契約)と滞在中(満足度)の状態を測定しないと、出口だけ良くなって全体が悪化する。
その会社が測定すべきだったのは、以下の組み合わせだ。
- 稼働率:退去率と入居期間のバランス
- 問い合わせ件数:物件の市場魅力度
- 入居者満足度:継続意思の先行指標
- クレーム解決時間:管理品質の代理指標
- オーナー継続率:経営の最終指標
これらを総合的に追えば、退去率も自然と下がる。逆に退去率だけを追うと、他が犠牲になる。
「退去率15%」が達成された日
5年後、その会社の退去率は12%まで下がっていた。目標を達成した。
同じ5年で、管理戸数は3,000戸から2,100戸に減っていた。オーナーが30%離れた。理由を聞くと「収入が増えない」「入居者から評判が悪いと聞いた」「他の管理会社から提案を受けた」。
退去率という指標は正しく動いていた。でも事業全体は劣化していた。
指標の構造的限界
KPI設計の世界でこんな格言がある。「単一指標を最大化すると、計測されない要素は最小化される」。
退去率を最大化(下げる方向に最大化)すると、退去率以外の要素は最小化される。新規流入、入居者満足度、オーナー満足度。これらは「計測されない」ため犠牲になる。
複数指標を同時に追うのは難しい。社員は分かりやすい単一指標を追いたがる。経営者も単一指標で評価したがる。結果、計測されない要素が静かに崩れていく。
オーナーが本当に求めているもの
オーナーは「退去率が低い」物件を求めているのではない。「収益が安定し、長期的に資産価値が維持される」物件を求めている。
退去率は、その代理指標の一つでしかない。退去率が低くても収益が下がる、退去率が高くても収益が安定する、というケースは現実に存在する。
オーナーに対して「退去率」を成果として報告する管理会社は、本質を取り違えている。報告すべきは「年間収益」「稼働率」「修繕費の削減額」「物件評価の維持」。退去率はその一要素として補助的に出すだけだ。
数値目標は強力なツールだ。でも目標自体が目的化したとき、それは劣化を生む。指標を疑える経営者だけが、長期的に物件を守れる。