退去の本当の理由は、退去者に聞いても分からない
スウェーデンの認知心理学者ペッター・ヨハンソンが行った実験がある。
被験者に2枚の顔写真を見せ、「どちらが魅力的か」を選ばせる。選んだ写真を被験者に渡す。ただし、手品の技法を使って、選ばなかった方の写真をこっそり渡す。
結果。被験者の約70%は、すり替えに気づかなかった。
さらに面白いのはその後だ。気づかなかった被験者に「なぜこちらを選んだのですか」と聞くと、自分が選んでいない写真について「この人の目が好きだから」「笑顔が自然だから」と、もっともらしい理由を語った。
ヨハンソンはこの現象を「選択盲」と名付けた。人間は自分の選択の理由を「知っている」のではなく、「後から作っている」。
退去アンケートという儀式
多くの管理会社が退去時にアンケートを取っている。退去理由を把握して、改善に活かすためだ。
典型的な回答はこうだ。「転勤のため」「家族構成の変化」「住宅購入」。どれも本人にとって説明しやすく、相手にとって受け入れやすい理由だ。
でもこの回答は、ヨハンソンの実験と同じ構造を持っている可能性がある。退去者は自分の退去理由を「知っている」のではなく「作っている」かもしれない。
退去アンケートに「隣人がうるさいから」とは書きにくい。「管理会社の対応が悪いから」とも書きにくい。面と向かって渡されるアンケートに、角が立つ理由を書く人は少ない。だから「転勤」や「結婚」のような、誰も傷つけない理由が選ばれる。
これはアンケートの設計が悪いのではない。人間が自分の意思決定の理由を正確に報告できないという、もっと根本的な問題だ。
退職面談のデータ
組織心理学の分野に、似た構造のデータがある。
企業の退職面談で社員が語る退職理由と、退職後に匿名アンケートで語る退職理由を比較した研究がある。両者は一致しない。
退職面談では「キャリアアップのため」「新しい挑戦をしたい」が上位に来る。匿名アンケートでは「上司との関係」「評価への不満」「職場の人間関係」が上位に来る。
同じ人間が、同じ退職について、聞かれる状況によって違う理由を語る。退職面談は「顔を合わせて」「会社の人事に」「退職手続きの一環として」行われる。この状況で本音を言うインセンティブはゼロだ。円満に去りたい。悪い印象を残したくない。だから誰も傷つけない理由を「選ぶ」。
退去アンケートも同じだ。管理会社のスタッフに「退去の理由を教えてください」と聞かれて、「あなたたちの対応が悪かったからです」と言える人は少ない。敷金の精算がまだ残っているなら、なおさらだ。
離婚理由の研究
家族社会学の研究でも同じパターンが見つかっている。
離婚した当事者に理由を聞くと「性格の不一致」が圧倒的に多い。でも離婚に至るプロセスを長期間追跡した外部研究者のデータでは、経済的ストレスと物理的な距離(単身赴任、長時間通勤)が支配的な要因として浮かび上がる。
「性格の不一致」は理由ではなく、ラベルだ。複雑で言語化しにくい要因の束に、社会的に受け入れられやすい名前を貼っている。本人もそのラベルを真実だと信じている場合がある。
退去理由の「転勤のため」も同じ構造を持つ。転勤は確かにあったかもしれない。でも転勤があっても退去しない人もいる。転勤が「引き金」になったのか「原因」なのかは、本人にも区別できない。
聞くのではなく、観察する
退去アンケートの限界は、「聞く」という手法そのものにある。
人間に自分の行動の理由を聞くと、人間は理由を作って答える。作られた理由は一貫性があり、論理的で、もっともらしい。だから信じてしまう。でもそれは事実ではなく、物語だ。
では、退去の本当の理由をどう把握するか。
一つのアプローチは、退去者に聞くのではなく、退去しなかった人に聞くことだ。長期間住み続けている入居者に「なぜ引っ越さないのですか」と聞く。この質問は「なぜ退去したのですか」よりも正直な回答を引き出しやすい。退去していないことに後ろめたさはないから、防衛的な回答をする必要がない。
もう一つのアプローチは、聞くこと自体をやめて、行動データを見ることだ。退去が多い部屋と少ない部屋の違い。退去が多い時期と少ない時期の違い。退去者の入居期間の分布。データは物語を語らない。だから嘘もつかない。
退去アンケートで「転勤のため」と書いた入居者が、同じ市内の、同じ間取りの、同じ家賃帯の物件に引っ越していた。転勤はなかった。でもアンケートに嘘を書いたわけでもない。本人の中では「転勤」が理由だった。ただ、その「転勤」は、半年前に管理会社に出した修繕依頼が3ヶ月放置されたこととは、本人の意識の中で結びついていないだけだ。
人間は自分の行動の理由を知っているのではなく、作っている。退去理由を聞くことは、相手の意思決定を理解することではなく、相手が作った物語を聞くことだ。